立つ鳥
ぼちぼち暖かくなってきて、少し前から庭に鳥が来るようになった。何種類かいるようだが鳥には疎いのでよくわからない。
最近交わした家族の会話。
父「さいきん庭に鳥がよーけおるけぇええのう」
私「この前変わった鳥がおったよ。緑色みたいな…」
母「緑?そんなんおったかいね?」
私「緑というか、なんていうか、ウグイス色?」
母「あんたぁそりゃウグイスじゃろ」
恥ずかしいばかり。群青色のグンジョウを知らない人はいるかもしれない。名詞から由来が忘れ去られる例はいくらでもある。それにしたってウグイスが出てこないんじゃさすがにやばい。
部屋からも木にとまる鳥の姿が見えるので楽しいね、八っつぁん。
矢印で示した赤い丸の中に鳥がいて、それを見つめる八っつぁん。気もそぞろ。
親友のninobe氏に捧ぐ。
冬が去り 春の足音 近づけば 庭の鶯 いざ飛び立たん
珈琲釜飯について
先日の京都行脚の帰り道、某サービスエリアにて昼食をとったときのこと。子連れだったため我々はゆったりと食事のできるレストランへ入った。着席してメニューを見ると1ページ目にイチ押しな感じでドドーンと何やら不穏なメニューがあった。「珈琲釜飯」。いやいや、それはおかしいだろう。さらに並んで「珈琲炒飯」。何かがおかしい。だいぶおかしい。私も30数年生きてきてそれなりにいろいろなものを食べてきた。にもかかわらず全く味を予測できない。
というわけで、失敗したとしてもブログのネタくらいにはなるだろうと「珈琲釜飯」を注文。お腹は空いているが期待と不安で既に胸いっぱい。そしていよいよ現物が登場。いざ釜のフタをとってみると…
うーん、確かに釜飯。しかしこの琥珀色は醤油によるものではなく珈琲によるものだということを私は知っている。熱気に運ばれてくる香りは…何かおかしい!確かに珈琲の香りがする。このあたりで「珈琲は食べ物じゃない」という単純な事実にようやく気付き始めた。しかしまだ実感はない。さて、意を決して食べてみる。…こりゃやっちゃったな〜。珈琲豆を炒ったような、何かが燃えたというか焦げたというか、そんな味。いや、味なんだろうか。もっと原始的で、かつ破壊的な感覚。これは食べてもしょうがないな、という感じ。食べ物なのかどうか、微妙な感じ。食べられるけど、食べられない。これがアンチノミーか。完璧にアウト。
しかし食べ物を残すのは私の主義に反するので、とりあえず食べて、セットでついてきたニュウメンでお口直し。ここまできて混乱の極みにあった私の心もようやく平穏を取り戻した。これがピースオブマインドってやつか。落ち着いて周りを見渡してみると、この店イチ押しであるはずの「珈琲釜飯」を食べている客は私以外に一人もいない。おいおい、メニューの1ページ目ですよ。野球で言ったら1番打者、イチローのポジションですよ。1ページ目のメニューなのに同時に裏メニューと化してしまっている、カントも想定外のアンチノミー。
我々はこの事態について考えてみた。このメニューはまるで使い勝手が考えられていない道路だとか、目的のよく分からないハコモノといった風情ではないか。明らかに無理が通って道理が引っ込んだパターン、政治の産物である。「このレストランはコーヒー会社が経営してるんじゃないか」。有力な仮説が出てきたが、検証のしようがない。せめてお客様アンケート用紙にて、この惨状を経営者に伝えなければ。そう思いながらアンケート用紙を見てみると
旅にハプニングはつきもの。というかハプニングこそが旅にアクセントを与えてくれる。ハプニングを乗り越えることで、絆が深まる。旅にとって目的地に到着することは、実はそれほど重要ではない。そこに至る道のりこそが重要なのである。「珈琲釜飯」はまさに一つのマイルストーンであった。もちろん躓きの石だが。
二次会の司会者に生きる奇跡を見る
bellwood夫妻の結婚式に参加。なんだかすごい結婚式場だった。料理のレベル高すぎ。裏山は任天堂の花札の絵柄になったとのことで、知らぬ間にゲーマーの聖地へと足を踏み入れていたらしい。このあたりは新郎の趣味であり、芸が細かいと言わざるを得ない。披露宴での余興も素晴らしかった。
一休みして二次会へ。ここではとんでもない事態が待ち受けていた。並みの司会者なら開始10分で投げ出してしまうであろうハイパーアクシデント。無慈悲なテロリストがそこにはいた。しかし司会者はそんな災害現場を見事におさめて見せた。その立ち居振る舞いはその場に居合わせた者どもの目を見開かせ、感動を呼んだ。あんな人になりたい。誰もがそう思った。神様っているんですね。二次会の司会やってた。
しかしさすがにすこし胸騒ぎが収まらないということでsamurai氏と二人で飲み直してから宿へ。丸一日遊んだ。今日の一日は新郎新婦のためにある。おめでとう。
今夜もゲイリー・ムーア
ゲイリー・ムーアはハードロック最強ギタリストの一人として君臨した後、キャリアの後半では自身のルーツであるブルースに還っていった。アルバム「After the War」などでのハードでパワフルなギターも魅力だが、渋いブルースもいい。
ところで彼は北アイルランドはベルファスト出身。そんな彼の一曲「Over the Hills and Far Away」。
このリズムとメロディ。この曲は明らかにケルト音楽を意識しており、自身のルーツをたどる一曲である。そういやロッド・スチュアートも「Sailing」などでケルト音楽を意識したものだったっけ。
そんな「Over the Hills and Far Away」、こんなステキなカバーが。
いや〜壮大、そしてクサい!聴いてるだけで頬が緩んでしまうなぁ。恥ずかしながらこのバンドのことは知らなかった。ボーカルだけじゃなくて全員上手いし、ちょっと面白いかも。それにしてもケルトの音楽とか文化というのは北のヨーロッパの人の魂を揺さぶるような何かがあるのかな。