半落ち

半落ちを初めて見た。


前半は警察と検察、さらにはマスコミという権力3羽ガラスの絡み合いの告発。
そういう映画なのかと思いきや、後半は打って変わってアルツハイマー患者に対して私たちが心情的にどう向き合うべきかを扱う内容。人が変わってしまった、つまり人格の同一性が失われた相手に対して、それでもなお我々は愛し続ける(あるいは憎み続ける)ことができるか。すっかり変わってしまった場合にはもはや愛する対象ではありえないであろう。
しかしながら痴呆症は発症した途端に人格の同一性が全て失われるわけではなく、症状は徐々に進行していく。なまじ見た目は同じ、さらに部分的には人格の同一性が残っている。これまで患者と共に歩んだ歴史、経緯、物語は記憶として残り続ける。これらすべてを失うのはやはり痛すぎる(耐えられない)と言わざるを得ない。その心情は理解できないこともない。
それはいいが、だから相手を殺したという理由(実際、理由ではない)は理解できない。殺した場合には愛する対象を失う。生かし続けた場合にもやはり愛する対象は、徐々にではあれ、失われる。いずれにせよ愛する対象を失うことには変わりはないわけで、その上で前者を選ぶのは結局その痛みを背負えないという宣言でしかない。他者を背負う重みに耐えられないのであれば、せめてその人の前から立ち去るのがぎりぎりの身の処し方ではないか。
主人公がアルツハイマーを患った妻を殺したことは、他者を背負う重みに耐え切れず、耐え切れない自己を優先したからであって、他者への愛が自己愛を越えられないという敗北宣言でしかありえない。実際主人公は自殺できなかったし、その上あろうことか法廷で「妻は2回息子を失った」などと泣き落としに走る始末。最後には骨髄移植で助かった男の子との掟破りの対面を果たし、そのうえその子に「生きてください」と諭される。近親者を殺害した事実を愛という甘言で隠蔽しようとする邪悪極まりない男にしか私には映らなかった。
この映画は痴呆症とそれを取り巻く問題を取り上げたという意味では社会的貢献があったのかもしれないが、それにしても描き方には問題がありすぎる。「魂が抜けたら(痴呆症になったら)命ではない(ケアする対象ではない)」という法廷での科白は、世界中の痴呆症患者に対する侮辱ではないか。
痴呆症を取り巻く問題への取り組みを促進するという意味では痴呆症患者に希望を与えたかもしれないが、それ以上にこの科白は痴呆症患者に対して絶望を与えたであろう。


えっ?釣られすぎ?